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EPRの論文はどこが間違っているか?~最大のクリエイティブエラー~

まず、古典論(実在論)と量子論の概念をざっとまとめたいと思う

清水明先生の「新版 量子論の基礎」より引用させて頂く

 

古典論の基礎仮定

(ⅰ)すべての物理量は、どの瞬間にも、各々ひとつずつ定まった値を持っている(「実在」している)

(ⅱ)測定とは、その時刻における物理量の値を知る(確認する)ことである。即ち、「物理量の測定値」=「その時刻における物理量の値」である。

(ⅲ)ある時刻における物理状態とは、その時刻における全ての物理量の値の一覧表のことである。

(ⅳ)時間発展とは、物理量の値が時々刻々と変化することである。

 

見た限りでは、当たり前すぎて明記すらされていないのである。

 

一方で量子論の基礎仮定は以下の4つである

(ⅰ)すべての物理量が、各瞬間瞬間に定まった値を持つことは一般にはない。従って、各々の物理量は、ひとつの数値をとる変数ではない、何か別のもので(例えば「演算子」)であらわす。

(ⅱ)物理量Aの値とは、観測者が測定値を一つ得る行為である。得られる測定値aの値は、同じ物理状態について測定しても、一般には測定の度にばらつく。しかし確率分布{P(a)}はAとΨから一意的に決まる。

(ⅲ)物理状態Ψとは、任意の物理量の(仮にその時刻に測ったとしたら得られるであろう)測定値の確率分布を与える「写像」である

Ψ:A→{P(a)}

(ⅳ)系が時間発展するとは、測定を行った時刻によって異なる{P(a)}が得られる、ということである。これはA→A(t)としてもよいし、Ψ→Ψ(t)としてもよい。

 

よく考えれば考えるほど、量子論が分からなくなる感覚に見われるのは私だけだろうか?

そもそも、物理量が各瞬間に定まった値を持たないとは、本当にこの世のものだろうか?

とりあえず理屈ではどうにもならないというのが量子論の世界である

 

ともかく量子論の世界では、物理量は定まった値を持つことはなく、測定の度にばらついてしまうために確率に頼らざるを得ないということだろう

 

量子力学を完全とみなさなかったアインシュタインは、この(ⅰ)を信じることができなかったのだろう

また清水先生は、このEPRでの間違いは、座標表示の波動関数(変数を座標と運動量に選んで、演算子形式をとり、その状態ベクトルを座標表示したもの)という極めて特殊な形式を採用したことに起因するのではないかと考察してらっしゃる

 

またこれは、私の個人的な考えだがアインシュタインスピノザという哲学者を崇拝していたことにもよると思う

スピノザは17世紀のユダヤ教徒で、「初期条件さえ与えればニュートンの方程式を用いて物質の時間発展は永遠に計算できる」という決定論を信じていた

このような考え方は神に反するとして、スピノザは、教会を破門された

 

しかし、スピノザはその考え方を改めず、大学の教授職を断ってまで自らの哲学を追求したのである

この名誉や資産を捨ててまで、学問を追求する姿勢にアインシュタインスピノザに尊敬を向けていた

 

このスピノザ決定論は、実在論と同じ考え方である

ゆえにアインシュタインは、スピノザと同じ考え方を捨てることが出来ず、量子論を認めなかったのではないかと思う

 

実在論では、取り扱うことの出来ない世界、量子論

アインシュタインでなくとも、誰でも世界は実在論で表現できると信じて疑わないはずである

 

量子論の生みの親であるマックス・プランクは、黒体輻射の量子的な理論を構築した際(古典論も完成し物理に発展はないとされていた当時)、「いつか古典的な手法で解決されることを望む」と話したらしい

新しい方法や理屈を遣うのではなく、既存の方法(認識)で物事を解決したいというは人間に共通した心理なのかもしれない

 

次は、EPRが因果律を満たしているということを証明したいと思う